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オルガネラ レビュー〈オル太のはらわた〉| O JUN(画家)



O JUN / 2013年7月30日

 

6月30日に金沢21世紀美術館で開催されている「内臓感覚」を観た。参加アーティストと作品は国内外のアーティストたち、絵画、彫刻、建築、映像、インスタレーションと多岐にわたっている。展覧会タイトルである「内臓感覚」に関する詳細は今展を企画した学芸員の吉岡さんの文章にとても明快に展覧会の主旨がその意義も含めて書かれているので是非そちらを読んでいただきたい。開館から現在まで興味深い展覧会を重ねている美術館だがぼくは当美術館の来館は今回が初めてだ。10時の開館を待って入った。梅雨のさなかではあったが、幸い空はなんとかもっていた。オル太の展示とパフォーマンスは中庭で観れる。樹脂で作り込んだ芝居のセットのような立体「オルガネラ」が展示されている。オルガネラはスパイラル状によじれのたうちながらかなり大きいものだ。表面はでこぼこしていて一見岩山に見えるが所々に鳥や獣の姿も見える。風景が変容しているのか、生き物が風景に変態しているのか判然としない境界上にその姿をさらしている。回り込むと内側は赤黒く彩色されていて体内のようだ。昔、母親の開腹手術に立ち会った時に見た腹腔内を思い出した。つやつやと光る腸や周囲の臓器のきれいなピンク色に息をのんだ。よく見ると腸の周りにびっしりと白いゴマのような粒々が浮いている。横にいた執刀医に訊いたら“これは転移した癌です”と言われた。そんなことを思い出していたら、オル太の一人が“侵入”してきた。ソロの動きがしばらく続いていると一人また一人と間をおいて登場してやがて全員が入り乱れててんでに動き回り、また順繰りに一人ずつ中庭から退場していった。およそ2時間近くのライブだ。始まりと終わり方をみると大まかな筋書きはあって、後はその都度即興的にアクションしているのだろう。フリージャズのセッションにも似た駆け引きややりとりもある。彼らのパフォーマンスを今まで何回か観ているが次第に長くなってきている。東京のオルタナティブスペース、ゲル・オルタナで観た時にはかなり長時間に及ぶものであった。それを写真家の安齊重男さんと観ていて、“ちょっと、長くないか?”、“そうですね、ちょっと長いすね”とヒソヒソ。演劇や芝居は筋を追うものと最初から心得て(アキラメテ)いるのである程度の長さは覚悟するものの、パフォーマンスでやられたらかなり退屈してしまうものだ。身体の動きが訓化されていない分だけ見所に欠け、生身ゆえに起りうる不測の事態を追い続けることにこちらの目が耐えられないからだ。この時、この長さはオル太の課題だなと思った。それからまた二度他所で観た。相変わらず長丁場だが前ほどには感じなくなった。こちらの目が慣れたわけではないのだが、彼らのパフォーマンスが“洗練”されてきたわけでもない。行為と時間の“そり”が合ってきたのだろう。その変化が7人と一つ(オルガネラ)に等しく起こりつつあるのかと思うと逞しさを感じた。回を重ねる度に次第に観衆も増え、そのなかでこれほどの時間を費やして己の身体を人前にさらすのは容易なことではないだろう。ぼくは彼らの時分にはパフォーマンスも絵もふにゃふにゃやってたから一向に身が入らなかった。それは今もそうなのだが自分で始めておきながら逃げだしたくなるのだ。人前で何かしているうちに恥ずかしくて恥ずかしくて、自分が恥ずかしさの塊になって燃え出しそうになる。おそらく自意識の裏返しなのだろうが、50年以上とても困っている。オル太は7人もいて、ぼくと同じようにパフォーマンスの最中に恥ずかしくて死にそうになっている者は一人くらいいないのだろうか?いつか聞いてみようと思いながらいつも聞きそびれている。もう一つの印象は、アンダーグラウンド感。70~80年代の芝居小屋を覗いているような錯覚をおぼえるのだ。巡業サーカス団的な泥臭さもある。だが、アングラ芝居もサーカスも当時はそんな印象も空気もみじんもなく、ただその最中に釘づけになっていただけだ。オル太が逆さメガネになってぼくに“かつて”をそう見させているのだろうか?この泥臭さ、今はかなり珍しいのでは…?。学生たちのライブやパフォーマンスを観てもずいぶんと洗練されてセンスの良さを感じさせるものが多い。そういうなかにあって、オル太の“泥臭さ”は演出か?とさえ思えてくる。彼らの動きを加速させ、時には戯れさせたり見守るようなオルガネラ。そしてこのハリボテ感…!。痙攣。麻痺。脱力。すくみ。神楽を想わせる軽妙でひょうげた身の動きに合わせて彼らが身に纏っている衣装も縮緬のように震える。彼らは一様に毎回自分たちで作った衣裳をまとっているが、それは“襤褸”と呼ばれる代物だ。中世、漂白の身に纏う旅する者の衣裳である。すべてが“作り物”、“自作自演”。“そこ”から何を何処まで想起できるか、オル太の存在はその一点に懸かっているといえないか?オル太のパフォーマンスの時間について少し触れたが、2時間という時計の長さではなく、一日の出来事のようにも思える。その一日から百年後先、あるいは千年後先が見はらせる気もする。今展の中心的存在とも言える生物学者の三木茂夫氏は、胎児は母親の腹の中で十月十日をかけて生命の全史を夢見ると言う。そういえば、オルガネラ本体にはミジンコから鳥獣までが共生しているが、同時にオル太のはらわたにも原始や古代、中世の時間がインプリントされているのかもしれない。

昨日は隅田川の花火も途中から降り始めたゲリラ豪雨で中止になった。今年は日本海側の天気も荒れ気味らしい。毎週末、この展覧会が終わるまでオル太はパフォーマンスを行うそうだ。パフォーマンスをしている最中に土砂降りに見舞われる日もあるかもしれない。だが、君たちは、中庭から建物の中に避難する観客たちをガラス越しに見ながら、滝のように落ちる雨の中を、欣喜雀躍と踊り狂うのではないだろうか。君たちには気の毒だが、ぼくはその光景も見たい気がする。