オカルティック・ヨ・ソイ:オル太の作品について|檜山真有
「作品が完成する日をSは想像もしていないように見えた。失敗の必然性を、ほとんど神学的前提として受け入れているようだった。他の人間であれば絶望の袋小路に追いやられかねない境遇も、Sにとっては無限のドン・キホーテ的希望の源だった。かつてある時点において、おそらくは失意の底にあった時点において、自分の人生と作品とをイコールで結ぶことに決めた彼は、いまではもう二つを区別しようにもできなくなっていた。あらゆる思いが作品の中に注ぎ込まれた。作品があるのだという思いが彼の人生に目的を与えていた。」
ポール・オースター『孤独の発明』
自分が作品だと思って作っているものは、「作品」を依代として自らをつくりかえ、生きながらえさせている自らの延命装置だった。そのため、Sが作品を完成させると、彼にとっての作品はとてつもない距離を隔てた「他者」へと変貌する。他者は私を見つめるか、私に寄り添い、巻き込み、その結果、私も他者を見つめざるを得ず、他者に反射した私をみることに耐えられない。だから、Sは作品を手放せない。自分で自分の姿を見るのが私は怖い。
とはいえ、本作は完成されているし、Sというドン・キホーテが作ったものではなく、Sというドン・キホーテが主役の作品である。《Take Don Quijote’s cue from a...》は、オル太の斉藤隆文がドン・キホーテに扮して、歌舞伎町をはじめとした新宿の街をビリヤード6番の球を打ち続けている様子を捉えた映像を中心とするミクストメディア・インスタレーションだ。しゃがみ、這い回り、頭上に全天球カメラを据えられた彼をオル太は新宿のドン・キホーテと見立て、斉藤も見事にそれに応え、ドン・キホーテとしての作品を仕立てていく。
まず、ドン・キホーテこと斉藤の試みについて。
彼は「以前いた巨人に突撃するために、月に座ったペンギンに金星を合わせるために。」とシネシティ広場から、新宿駅東南口に位置するドン・キホーテに向けて6番のビリヤード球だけを執拗に玉突きしていく。6番は占星術で金星を意味し、ペンギンには金星しかない成分「ホスフィン」が含まれる(なぜ、私たちは金星に行ったことがないのにそれが分かるのだろう。)。シネシティ広場でペンギンといえば、ドン・キホーテのキャラクターであるドンペンであり、そのグッズを身にまとった若者がこの広場にはたくさんいる。金星は15歳から24歳という若者も意味する。ペンギンに対をなす動物、シネシティ広場ではそれはライオンである。ライオンズクラブによるライオンの銅像がシネシティ広場にはある。占星術で1番は太陽、獅子座を意味する。さらに、彼はペンギンとライオンの記号的役割の連関を深めて、飛躍させていく。(ペンギンは飛べないけどね)
ペンギンはサンスターのキャラクター、ライオンはヘルスコンシューマーのLION。双方ともに歯磨き粉を販売していた。だから、彼はシネシティ広場をキャンバスとして、三色歯磨き粉で絵を描いた。写真のライオンの銅像に向き合う、キューを持ったドン・キホーテ。太陽(1番であり、獅子座)。ドン・キホーテと従者のサンチョ・パンサ。「手の中の一羽は、藪の中の二羽より価値がある。」、そしてドンペン。
彼の試みに一体どのような意味を付与すれば良いのであろうか。小説『ドン・キホーテ』の主人公であるドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャの試み自体が意味を求めなかったゆえに滑稽だと語られていたように、新宿のドン・キホーテも作品が彼の依代だとしたら、単なる滑稽な男のドキュメンタリーである。
しかし、本作はオル太の作品である。新宿のドン・キホーテのドキュメンタリーにはとどまらない。というよりむしろ、彼はオル太に操作されていたのかもしれない。新宿に「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」という劇場があったこと、しかも、それが現在、ドン・キホーテになっていることを目指すようにオル太は前もってリサーチして斉藤にルートを仕向けていたのではないか。盛り場としての新宿の過去と現在はドン・キホーテを拠り所にドン・キホーテというキャラクターでつながる。
だが、ドン・キホーテである斉藤もオル太であるから、逆に、彼がオル太を操作していたということも考えうる。彼の思うがままにオル太が動いており、新宿の盛り場の歴史のコンテクストは後から盛り込まれた斉藤が意図している記号と記号を結ぶストーリーなのではないか。本作はオル太の他の作品においても少なからずある特質、作品の構想・制作段階からメタ的な入れ子構造であることを存分に発揮し、虚実のボーダーを曖昧にしていく。
V・ナボコフは小説をマルチ・トラック(複線小説)、ワン・トラック(単線小説)と分けたなかで、『ドン・キホーテ』をワン・ハーフ・トラック(1.5線小説)だという。そう、この物語はドン・キホーテを取り巻く人々のものでもなければ、彼一人の物語でもない。サンチョ・パンサとドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャの二人で一つの統合体としての物語の軸である。言わずもがな、斉藤とオル太の関係性はドン・キホーテとサンチョ・パンサになぞらえることができ、本作はワン・ハーフ・トラックだ。
そのことをもっともよく示すのが、四季の路でのショットである。ここでは突然、ドンペンのアロハを着た男が酒瓶を持ち、「ムーラン・ルージュ」という語を発し、ドン・キホーテに絡む。そこで、オル太と斉藤は一つの統合体として、別々の道を歩んでいた物語が一つのベクトルを向く。私たちは、ムーラン・ルージュをショットする。
その時、あらゆる思いが作品に注ぎ込まれた。目前にあるドン・キホーテ東南口にショットできずになんども、なんども数百回ショットを重ねる。水はけのために道路に傾斜がついていることや、歩道と車道を隔てる些細な段差の全てが、私たちを阻む。ラストシーン。ドン・キホーテのすぐそばで立ち尽くす斉藤のカットに続き、天から雨が降り、暗幕。2021©OLTA。もし、空から降る雨を見ているのがドン・キホーテのアングルだとしたら、彼が頭上に据えている全天球カメラはドン・キホーテ東南口の天井から姿をのぞかせるドンペンをショットしている。意図せぬ邂逅。自分で自分の姿を見るのが私は怖い。