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オルガネラ レビュー|小形幸



内臓感覚展は《ゲンシニンゲン》にも通じる、アニミズム的な、太古の根源的な力を彷彿とさせながら今日的感覚や諸問題を巧みに扱うオル太に最適なステージを与えた。

アナ・メンディエータ、ルイーズ・ブルジョワ、ピピロッティ・リストや中川幸夫らの国内外の作品が数多く集まる中、ひときわ若いオル太が展示する赤黒い大きな《オルガネラ》は、光庭と呼ばれるガラス通路に四方を囲まれた中庭に鎮座している。博物館施設において保守されるべき美術作品が外部に存在するという内外の反転的な環境もまた興味深いが、哺乳類の血肉や肝、肋骨を思わせるような部位や、巻貝のようなねじれをもつ巨大な物体は、既視感を与える。そのフォルムやマチエール・色彩といった要素が、もはやオル太の「真骨頂」ともいえる程に彼らの作風を象徴していたから、それがゆえだろうか。とにかく、既視感というものは皮肉にも見る者に安堵を与える。

しかし、その安堵は即座に掻き消され、緊張に変わる。
光庭に出現した《オルガネラ》は、恐らくオル太自身の身体的介入無くして完成形を為さないだろう。
オル太は全身全霊を賭した身体運動をとおして、絶えず思考し続ける。
彼らは何がしかの機能を有する細胞内の一構造物として、《オルガネラ》の内外を徘徊する。
視覚を奪うように布で覆面した姿で、地を這うものもいれば《オルガネラ》の空洞部に入り込んで暫く出てこなかったり、それを異なるものが別の穴から押し出そうとしたりする。這う、飛ぶ、押す、居座る、くっつく。人間の姿・スケールを留めながら、彼ら自身は高等知能を有する生物=ヒトでは無い、微視的世界の生物行動を示している。鑑賞者はその異様な光景を目撃・体験する。

オル太の身体は、アスファルトに擦られ、ジリジリと焼きつく太陽光に耐え、風雨に耐え、緊張と疲労、筋肉の伸縮、骨を持つ動物としての運動的限界を体験するだろう。そうした彼らの身体的経験は、顕微鏡のレンズ越しに覗き込むような微視的世界と演者としての身体的リアリティをもった体感的世界、2つの次元における接触領域を拡張する。
鑑賞者の感覚は、オル太の身体を媒介して自らの体内にある(自分の目では認知し得ない)ミクロの世界を捉えようと覚醒し始める。「見える」事が理解の担保と誤解し安堵している現状に改めて気付かされるとともに、その繋がりが自身の体にも確かに宿されている事を感じとる。

不可視ながら、何かに作用するもの。きっかけさえあれば予期せぬ暴動を誘発する可能性をも有している。その連鎖はDNA、内臓、身体、生物、大地、海、地球、そして宇宙へと拡がるかもしれない、果てしないものだ。それは、《オルガネラ》公開直前に都内で公開された《大地の消化不良》にも通じる。

《大地の消化不良》で目にしたのは、未だかつて見た事の無いオル太だった。
それは、震災以後倒壊し放置された民家の基礎を人間の口に見立て、何がしかに蝕まれたような歯や、機能不全に陥ったかのような舌を模した大きなオブジェを付置し、不穏な気配を帯びていた。人工的な干渉により変化を余儀無くされた自然環境と生き物の身体的な繋がりからまざまざと浮かび上がるものを、鑑賞者である私たちはまさしく「消化不良」として各々持ち帰る事となった。

そして今回、身体の開口部のひとつである口(《大地の消化不良》)から、体壁系でありながら内臓感覚をもつ巨大なその舌によって飲み込まれ、私たちは更なる深層部・微視的な細胞世界《オルガネラ》へと入り込んだのだ。
《大地の消化不良》で提示されたものは、とりわけ今日の日本の現状を示しているものにも感じられるが、《オルガネラ》をして人間の身体スケールと顕微鏡のレンズ越しに覗き込むミクロな世界を往来しながら思考を泳がせていると、《大地の消化不良》も《オルガネラ》も、私たちの生きる世界に潜む未来について考えを及ばせる装置である事が見えてくる。過去・現在・そして未来へと繋がる時間軸の中にそれらは存在している。

それにしても《オルガネラ》は、トリミングされた内臓の断片のように見えるが、ひょっとすると未来的でグロテスクな乗り物のようにも見える。内臓の断片としてだけ見ると、体内から切断された事で、その内臓自身とそれを奪われた母体の「死」を想起させるが、《オルガネラ》は死を超越した次元で平然と機能しているようだ。それはどことなく、メルヴィルの小説『白鯨』で、奈落の海底に沈むピークウォド号から飛び上がり、唯一の生存者であり物語の語り手となるイシュメールを救う、救命浮標と転じた柩の存在を思い出させる。

オル太は作品をとおして具体的な何かを標榜している訳ではない。オル太の作品は現実社会をまなざすアートであり、それを前景として、その背景に私たちが何を見出し・捉えていくかが肝要なのだ。ただ、彼らがこれまでの発表作品をとおして示してきたものが、私たちをとりまく環境や現状に係る疑義に対してである事は確かだろう。解決困難な途方も無く大きな問題。個人で立ち向かうには限界のある問題。私たちはそれでも向き合わなくてはならない。そんな決して明るくは無い状況を反芻するにおいて、尚、何故か絶望ばかりせずに済むのは、いまだ未知なる世界を秘める壮大な海から飛び出た救命浮標の柩のように、《オルガネラ》にも強い浮力を感じられるからではなかろうか。暗い闇から飛び出る力は、未来を模索し続ける若きオル太の強い意思そのものなのかも知れない。

オル太が示した「内臓感覚」は私たちのパーソナルな身体を出発点としながら、個を越え、人種も生物学的体系をも超え、体内に刻まれた遥か彼方の生命の記憶から地球全体、そして未来、宇宙へと拡がり出る。私たちの身体が邂逅したこの特別な鑑賞体験によって、まるでそれ以前とは異なる感覚を得た身体へと変容したかのように錯覚されるかも知れない。けれど変わったのは身体では無い、私たち自身の意識だ。
かくして内臓感覚たる意識・想像力を携えた私たちは、いつもの日常生活へ戻っていく。
「全ては私の中で繋がっている。」そう確信しながら。
そうして見る世界は、ずっとずっと面白い。